展覧会Exhibition
鈴木咲穂 - ありふれた面影
2018年 11月 14日 (水) - 11月 25日 (日)
この度アートフロントギャラリーでは、鈴木咲穂の個展を開催致します。
日程 | 2018年 11月 14日 (水) - 11月 25日 (日) |
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営業時間 | 11:00 - 19:00 (月、火休) |
レセプション | 2018年 11月 14日(水) 18:00~20:00 |
作家在廊日 | 11月 25日 (日)13:00-17:00 |
石川啄木の詩集「一握の砂」の中にある詩を掲げた歌碑がかつて陸前高田にあった。2011年の東北地方太平洋沖地震で海に流され失われている。地面とそこに落ちる影を描いた鈴木咲穂の作品に東北芸工大で始めてであったとき、啄木の詩を思い出した。朴訥とした少ない言葉の中から読む側の想像力をかきたてる詩と地面を描く鈴木の作品が繋がった。作品細部からは鈴木の現実への関心を感じつつ、災害やそれが時代に与えた影響を思った。啄木を始め宮沢賢治、土門拳など東北出身の作り手は社会や現実に注目する人が多いような気がする。各々の同時代意識から作品はそれぞれの広い世界へ開けてゆく。鈴木にも空を渡る船を描いた作品があったが、地面と影の作品からも向こうにある物語を感じさせられた。
美術への一歩を踏み出した地が東北だとすると鈴木の感性には出身地である長野県の小諸の影響もあるのだろうか。島崎藤村の歌でも知られる小諸は古い時間の蓄積から出来ているような町だ。現在というものが「今」だけではなく過去もが折り重なった結果として自然にできあがっているという感覚的な時代認識が東京のような都市に生きるアーティストよりも強く鈴木の制作スタイルにも生きているのではないか。日本画というカテゴリーに固執することもなく、あるいはそれを乗り越えようとあがくこともない。同時代性を追求するために時代の表層を追うこともなく、流行に捉われすぎて自らの描くべきテーマを失うこともなく、鈴木の作品は自身と現実との接点から無理なく描いているようで見ていて心地よい。作ることの動機を自然体として会得しているようにも思える。
もちろん鈴木の作品には流行歌のような派手さはない。しかし流行に乗って消費されることだけが同時代性ではない。文学や美術は時代を超えていくべきものだ。いまここに生きる作家の発露と今ここにいる読み手が繋がり、時代を超えて想像力をかきたてることができる優れた同時代性。日本の現代アートには残念ながらまだ力が足りないかもしれない。鈴木もまだ出発点に近いのであろうが、優れた同時代性を獲得できる可能性のある稀有なアーティストであると思う。新規さや流行に捉われすぎず、優れたものとはどういうものか、それを考え続けたい。今回の展示を企画し、そう感じた。
アートフロントギャラリー 近藤俊郎
美術への一歩を踏み出した地が東北だとすると鈴木の感性には出身地である長野県の小諸の影響もあるのだろうか。島崎藤村の歌でも知られる小諸は古い時間の蓄積から出来ているような町だ。現在というものが「今」だけではなく過去もが折り重なった結果として自然にできあがっているという感覚的な時代認識が東京のような都市に生きるアーティストよりも強く鈴木の制作スタイルにも生きているのではないか。日本画というカテゴリーに固執することもなく、あるいはそれを乗り越えようとあがくこともない。同時代性を追求するために時代の表層を追うこともなく、流行に捉われすぎて自らの描くべきテーマを失うこともなく、鈴木の作品は自身と現実との接点から無理なく描いているようで見ていて心地よい。作ることの動機を自然体として会得しているようにも思える。
もちろん鈴木の作品には流行歌のような派手さはない。しかし流行に乗って消費されることだけが同時代性ではない。文学や美術は時代を超えていくべきものだ。いまここに生きる作家の発露と今ここにいる読み手が繋がり、時代を超えて想像力をかきたてることができる優れた同時代性。日本の現代アートには残念ながらまだ力が足りないかもしれない。鈴木もまだ出発点に近いのであろうが、優れた同時代性を獲得できる可能性のある稀有なアーティストであると思う。新規さや流行に捉われすぎず、優れたものとはどういうものか、それを考え続けたい。今回の展示を企画し、そう感じた。
アートフロントギャラリー 近藤俊郎